三輪自動車の歴史(2)


各地区で異なるメーカー順位
 第2次世界大戦直前の1936年度のベスト
セラーはダイハツであり、マツダが2位、3位
ニューエラに順位はほぼ不動であった。これ
以下のメーカー順位は地区によって異なり、
東京での人気車はウェルビー(新会社の
山合製作所製670cc、京都)、イワサキ(新
会社の旭内燃機、大阪)。大阪では地元の
イワサキ、兵庫県の2社HMC、ツバサが
続いた。愛知では地元のミズノが独自の
水平横型単気筒に前輪駆動方式で2位と
マツダを抜き、以下ヂヤイアント、ニューエラ、
ウェルビーが続いた。この他の目立ったメ
ーカーには、ハーレーダビッドソンの完全
国産化が済んだ陸王(三共内燃機、東京・
品川)、富士矢(昭和内燃機製作所、東京・
墨田)、戦後のスクーターメーカーである
ヒラノ(平野製作所、愛知・名古屋)など
があったが生産量は多くなかった。

戦争突入 
しかし1937年2月からの軍閣僚内閣によって第2次世
界大戦へと突入、あらゆる産業各社が軍需工場に変えら
れていった。そうしたなかで自動車産業も1943年の企業
整備で、4輪はオオタ、三輪はダイハツ、マツダ、くろ
がね(ニューエラが1937年に改名)、2輪はアサヒ、陸王

の計6社のみが自動車生産を許可された。
そうしているうちにガソリンの輸入も途絶え、
代用燃料の三輪トラックがダイハツ、マツダ
両社で生産された。また戦時標準型三輪ト
ラックが計画され、くろがね(エンジンとフロ
ント部)、ダイハツとマツダは他の部分を分
担生産となり1943年に試作車のテストがお
こなわれた。しかし戦争激化で生産されず
に終わったのである。





戦後における新規参入国産三輪の流れ

1945年8月に終戦を迎えた日本各地のあらゆる産業は
敗戦国ということから、戦時下の軍需工場建物や設備は
実物賠償工場としてGHQ(連合軍総司令部)にとりあげ
られる運命にあり、しばらくは操業できない時期が続い
た。しかし民需産業転換が続々と許可され、しかもGHQは
日本の戦後の混乱と貨物運撤事情が極端に悪いことを
察し、1945年9月にトラックの生産を月産1500台に限っ
ていちはやく許可したのである。
 これを受けて三輪トラック生産の準備がされ、11月ダ
イハツ、12月マツダ、1946年1月には、くろがねが戦後の
第1号車をそれぞれ生産し再開にこぎつけた。もっとも
工場の賠償工場解除がされていない工場、材料不足など
の問題も多くあり、量産化までには時間を必要とした。
 また三輪は造りやすい・・・・との印象があったのか、新
しいメーカーが以下のように名乗りをあげた。

東洋精機のオリエント(1946年7月、埼玉・桶川)
中日本重工業のみずしま(1946円、岡山・倉敷)
明和自動車のアキツ(1946年、兵庫・西宮)
日新自動車のサンカー(1946年12月、神奈川・川崎)
新愛知起業のジャイアント(1947年9月)
汽車製造のナニワ(1947年、大阪)

ダイハツおよぴツバサ工業のスタート
1951年12月に発動機製造は、社名をダイハツ
工業へと改称した。また戦前に使用したツバサ
の名は1952年9月設立のツバサ工業(大阪・
茨木)として再使用して、まだ戦後の軽運搬を
目的に需要のあった2輪車を生産してダイハツ
の販売網にのせたのである。試作車は三輪車
の主力、池田工場で造られた。ツバサはダイ
ハツと工場を提供した阪神内燃機、それに販
売店が株をもってのスタートであり役員は元
ダイハツ関係者で占められた。
マツダ、国産初のOHVエンジン開発
 マツダの戦後型も戦前の鋼板フレームの1938年以来の
SV単気筒669ccGAを広島・安芸本社工場で生産再開、
1949年に701ccに排気量アップしたBGを経て、1950年
9月に国産エンジンで初のOHV60度X型2気筒1157cc
を採用したCTがデビュー、同時に角型スタイルを採用、
さらに1952年には幌屋根と荷台鳥居がついた1トンCTL
と2トンCTLlが登場。


丸ハンドル化の時代へ
 三輪自動車にとって丸ハンドル化は歴史上
からみて、斬新といえるメカニズムではないが、
日本の場合は荷物運搬それも近距離が多く、
回転半径の少なさも手伝って、バーハンドル
でも使うことに不自由はなかった。戦後の丸
ハンドル車は1947年ナニワ号をはじめとして
1951年ダイハツBEEとヂヤイアントコンドルが
あったが生産量は少なかった。


1957年まで続いた三輪トラック全盛期
 世界的にみても、日本の三輪トラックほど
普及した例はかつてなかったといえる。小型
トラックの生産量を比較してみると、少なくとも
1957年までは4輪よりも三輪が圧倒的に生
産台数が上回っていた。
 その多さの一例として1951年4〜9月の半年間でトヨ
タ、日産、オオタの3社しかなかった4輪トラックの合
計がわずかに3891台であるのに対して三輪トラックはダ
イハツ6114台、マツダ5531台と両社とも単独で4輪をは
るかに抜いていた。以下、みずしま2351台、オリエント
2056台、くろがね1978台、ヂヤイアント1台342、アキツ
1335台、サンカー695台の順だった。保有台数比較でも
4輪3.7万台に対して三輪13.3万台と多く、また軽と自動
2輪の合計6.9万台をも上回っており、
いかに多かったかがわかろうというもの。
 もっともまだ生産体制の確立していな
かった4輪トラックはトヨタ、日産でも月産
200〜300台がやっと、ダイハツ、マツダの
3分の1であった。


4輪移行と三輪トラックの終焉、トライク誕生
1960年9月より小型自動車の排気量制限が
2000ccへ拡大され、マツダは1トンをT1500
に移行させ、2トン車は1985cc、81psエンジン
のT2000となった。ダイハツもやや遅れなが
らも水冷4気筒1490cc、68psを1.25、1.5トン
に、2トンに1861cc、85psを搭載してマツダ
に対抗した。いずれもエンジンはマツダが
E2000新型4輪、ダイハツはV200各キヤブ
オーバー4輪トラックからの流用であり、三輪
メーカーも4輪へ進出した。
 生産台数においては1962年、マツダでは
三輪が4輪トラックに追いつかれてならび、
1963年にはダイハツ、マツダともに4輪がとう
とう三輪を抜いたのである。
 三菱とオリエントの両三輪が1963年限りで
生産中止となり、かつて栄光を誇った小型三
輪車も1974年限りで生産終了となる。しかし
木材運撤などの一部業種では、その便利さも
あり三輪を使い続けるユーザーも多く残り、
1975年時点で4.3万台、1985年4804台、1995
年においても2221台の保有台数を記録して
いる。しかもこれ以降は微量ではあるが2輪
の1300〜1500cc大排気量車をベースに後
部にカナダやアメリカ製のデフ付リアカーキット
を組み合わせたトライクなど、新しいスタイル
の小型三輪乗用車が増え続けているのである。


軽三輪界をリードしたホープスター、ムサシ
 日本における軽三輪としてリーダーシップ的
存在だったのが1953年2月登場のホープスタ
ー(ホープ商会、東京・台東)だった。その第1
号車は4サイクルSV単気筒350cc、15psエン
ジンを搭載していたが、エンジンとシヤシー系
は自社開発である。長年続けた修理業の経験
から、でき得る限り市販品を流用して製作、ピ
ストン、バルブはくろがね750ccVDAのもの、
キヤプレターはミクニ製の500cc用、クラッチは
マツダ701ccGC、キックはダイハツ、ミッション
からデフまでの駆動系はダットサン750ccの
ものを用いていた。
車体系もデビューの頃から充分すぎる信頼性
をアピール、バックオーダーをかかえるほど
だった。
 需要にこたえるため、1954年1月からホープ
自動車と改名して新しくスタート、本社工場を
港区の田町駅そばに移転した。オープン型か
ら1954年11月には単眼キヤブ付SD、1956年
2月には2サイクル・ダブルピストンのSU型を
投入、生産も前年の280から847台へ増加、1957
年4月には川崎工場を稼働させ月産250台を
キープ、年産1959台と飛躍的な増加をみせた
のである。
 ムサシ(三鷹富士産業、東京・三鷹)もラビット
などと同様の旧中島飛行機系技術者の会社で、
1957年1月より軽三輪の生産に入り、当初月産
25台、平均50台を生産した。
メカニズムとスタイル的には同期のホープスターと
ほとんど同じで、単眼ヘッドライトMF方として登場、
東京と名古屋、大阪に出荷された。

ミゼットとライバルK360登場
1957年8月発売されたミゼットDKAは、ダイハツの
協力工場である旭工業(兵庫・西宮)が近くのアキツの
明和自動車を傘下に入れ開発、1956年に試作車8台を完
成した。
空冷2サイクル単気筒250cc、10psエンジンは
ダイハツ系2輪メーカーのツバサ工業で開発
したもの。
 先行していたホープスターより小さく、3輪ラ
ビットよりも大きくした車輪など双方の良い面
を取入れ、価格23.5万円も両車との中間に設
定したことが成功につながったといえよう。ミ
ゼットの発売により、風雨を守るキヤブ付の
快適な軽三輪が軽2輪免許で乗れること、
250cc2輪車と維持費的に大差ないことが、
ようやく広くアピールされ、配達用にスクー
ターやバイクからの乗換組が爆発的に増え
たのである。

軽三輪も軽4輪へ移行、三輪時代の終焉へ
 すでに小型三輪が4輪へ移行していたことも
あり、軽三輪のつぎには軽4輪時代が来る・・・
と予測していたメーカーは、早々と軽4輪トラッ
クヘの転換を実施していた。
1959年8月にムサシの三鷹富士産業がパドル
PD、10月に東急くろがね工業がいきなり軽4輪
初のキヤプオーバー型ベビーを、11月には愛知
機械工業が軽三輪の前部を4輪にしたような構
造のコニー360、1960年6月にホープ自動車も
遂に軽4輪ユニカーを投入。軽のトップメーカー、
ダイハツもハイゼットL35を10月に、マツダも
軽4輪乗用車R360クーペを1960年5月に発
売した後に1961年2月B360トラック、5月に4
人乗りライトバンをいちはやく投入した。

1961年東京モーターショーは軽4輪車が台頭し
た状況が明らかになり、小型三輪および軽三
輪の終焉が近いことを感じさせた。各社の三輪
撤退は1961年ムサシ、1962年三菱レオと1963
年ハスラーにともない、小型三輪から三菱とオ
リエントが消えた。1965年ホープスターの撤退
で三輪メーカーは、ダイハツとマツダの2社の
みになったのである。
1970年代に入り、東京モーターショーを記念して
発行されたきた自動車ガイドブック誌上最後の
三輪車は、ダイハツではミゼットをさらに小型に
した全幅940mmの電気集配用電気自動車
DCB−1と全長5.1mの2トン車CO10T、マツダ
では1トン積T1500のTUB81、2トン積T2000
の超ロング6m車TVA32Sであった。






三樹書房刊小関和夫著「国産三輪自動車の記録」より転載


三輪自動車の歴史(1)
ナカジマ部品の母体(1)